差別と闘う子どもの論理

差別をしてはいけないということは当たり前のことである。
しかし、「なぜ、差別をしてはいけないの?」と聞かれたら、なんと答えるだろうか。

「相手の気持ちになってごらん。相手を悲しませてはいけないよ。」
「もし自分がされたことを想像してごらん。いやでしょ。自分がされていやなことは人にもしてはいけないよ。」
「差別は人の命を奪うこともある。そんなことはしてはいけないよ。」
「日本国憲法できちんと基本的人権の尊重は定められているんだよ。だから差別をしてはいけないんだよ。」

こんなふうに答えることが多いのではないか。もちろんこれらも大切な理由である。
しかし、「してはいけない」ということだけでは「自分自身は差別なんかしません。でもほかの人のことは知りません。」という傍観者をつくり出してしまう可能性もある。

向山学級の子どもたちは、「児童会の差別の仕組みをぶちこわせ」の中で次のように述べている。(「学級新聞サタディ」より)

「差別」というものは、そうすぐになくなるものでありません。選挙方法をなくしたからといって、差別の全部がなくなるわけではありません。そりゃあ、全部なくなってくれればいいのだけれど、そうなるには、私たちは戦い続けなくてはなりません。今の私たちがなくさなくても、なくせなくても、いつの世か、いつの時代にか、人間が人間であることを心をうけついだ人々が、次の世代から、また次の世代へと、心を伝えられた人々がそれをなくすはずです。その時代に生きゆく人々が、私たちをふりかえった時、差別をなくすために、ささやかな戦いを、ささやかな努力をした人々を遠く想いおこしてくれるでしょう。
人間の可能性を伸ばすためには、誰でもが幸せになるために、誰もが能力をのばすために、みんなが明るくたくましくなるために、私たちはそれに少しでも近づくために、私たちは差別と戦わなくてはならないのです。
自然に子どもたちがこんな認識をもつはずがない。これは教育実践の結果である。
「世代から世代へと受け継がれていく差別との戦い」、「人間の可能性を伸ばすために、誰もが幸せになるために」「みんなが明るくたくましくなるために」「それに少しでも近づくために」「差別と戦わなくてはならない」

そう、向山学級の子どもたちは「差別をしてはいけないんだ」とはいっていない。「差別と戦わなくてはならないのです」「差別をなくすために立ち上がったのだ」「そんなことは、なくすべきだ」といっている。傍観者ではない。当事者なのだ。
「差別をしてはいけません」というだけでは到底たどりつけない子どもの姿がここにある。

どのような教育実践がそこにあったのか。
少しでも解明してみたい。

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